函館

日本政府は、1855年1月26日に下田で締結された日露和親条約に基づいて、ロシア船のために下田、籍館、長崎の三港を開港し、ロシア政府が下田、籍館の一港に領事を派遣することを承諾しました。又、両国政府は「領事の家屋並地所は日本政府の差圖に任せ家屋中自國の作法にて日を送るべし」と合意しました。条約を署名したE.V.プチャーチン海軍中将の推奨により籍館が選ばれました。

1857年12月、E.V.プチャーチンの日本への外交ミションに通訳として同行したロシア帝国外務省アジア局のヨシフ・ゴシケーヴィチ6等官が籍館の初代駐日領事として任命されました。領事は、ロシア政府の命令により、以前正式な外交関係の存在していなかった国での政府の政策を実行する任務が与えられました。 

ゴシケーヴィチ夫妻と領事館職員は、1858年2月に日本へ旅立って、シベリアを経て同年10月に露米会社の商船「ナヒモフ号」と第一アムール海軍部隊の軍船「ジギト号」で籍館に着任しました。ロシア領事一行は高龍寺と実行寺に一時仮住まいをしました。

1859年に亀田にロシア式風呂とパン焼き窯を併設した病院が建てられました。数ヶ月にわたる日本政府との交渉の結果、同年に領事館用として縦300フィート、横240フィートの土地が提供されました。(現函館ハリスト正教会所在地・函館市元町3−13)ナジーモフ海軍士官が設計し、日本人の大工により木造二階建ての建物がこの地に建てられました。その建物の一階は領事館の事務室で、二階には領事と家族が居住しました。又は、職員住宅用として平屋4棟、ロシア正教会、学校などが建てられました。建築は急テンポで進められ1860年4月に領事館は新しい建物へ移転しました。しかし、1865年に英国領事館から発生した火災はロシア領事館に燃え移り、領事館の建物はほぼ全焼してしまいました。

ヨシフ・ゴシケーヴィチと領事館職員は道民に航海技術、医学療法等の知識を喜んで分け与え、ロシア正教、ロシア文化、ロシア語などを紹介し、写真、洋服の縫製法、パンの焼き方、乳製品や塩漬の作り方などを教えました。領事館の書記官兼ロシア教会輔祭のI.V.マホフ氏は日本の子供たちに日本で最初のロシア語入門書を出版しました。1998年、ロシア連邦外務大臣は在函館ロシア領事館設立140周年記念して日本外務大臣宛に送った親書ではそのロシア領事ミションは豊かな露日間の善隣・友好関係の潜在能力を発揮する出発点となったと強調しました。

ヨシフ・ゴシケーヴィチはエリザヴェータ夫人が死去した後、1864年に退任を申し出て、1865年にロシアへ帰国しました。ゴシケーヴィチに代わりエヴゲーニイ・ビュツォフが籍館に着任しました。エヴゲーニイ・ビュツォフは代理大使として北京へ任命される1869年まで籍館で勤務していました。彼は1871年中国から再び日本へ戻り、駐日総領事兼公使に任命され、まず横浜に赴任し、その後東京に着任しました。日本の首都東京にロシア大使館が開設され、函館のロシア領事館が行っていた全ての業務を大使館が引き継ぎました。そのため函館の領事館は1875年に事実上閉鎖され、1881年からは、領事館の職員が夏に函館へ来て、冬に東京へ戻るという 季節限定業務の形式で再開されました。 

1901年の夏に函館を訪れたアレクサンドル・ペトローヴィチ・イズヴォリスキー駐日ロシア公使はロ日貿易にとって函館は重要な港町であり、通常の領事業務に戻す必要性があることを認め、この業務を果たすために独自の建物を建てることにしました。 

1902年に、当時の日本の法律の特性により999年間の賃貸の形式で契約し、函館の船見町125に副領事館用として土地を入手しました。 建設委員会はいくつかの建築プランを検討し、最終的に横浜在住のドイツ人建築家R.ゼールの設計図を採用しました。1903年ゼール氏はドイツへ帰国したため、プロジェクトは彼の同胞G.デ・ラランデが継続しました。

1903年7月にこの土地に1904年5月までには完成する予定の建築が始まりました。しかし、ロ日戦争が始まったため全ての作業は中止されました。領事館の職員は帰国して、未建設の建物は在東京フランス公館と地元の警察に警備を依頼しました。 

ポーツマス条約の締結後ロシア領事館は函館での業務を再開しました。同時にロシア帝国の副領事館公邸の建築は継続され、1906年12月に完成しました。

しかし、1907年の8月には副領事館の建物はまた被害を受けました。函館で発生した大火は建物ほぼ完全に崩壊しました(3時間で1万2千棟の建物が全焼)。復興作業は1908年12月まで継続されました。1917年の革命の後で副領事館がロシア帝国の旗のもとで1925年までに業務を継続していました。これは最後のロシア帝国の副領事E.F.レベデフは離任するまでです。

1925年1月にソ連邦と日本の両政府は外交・領事関係の樹立に関する協定書に署名しました。在函館ソ連邦領事館の初代領事にはA.N.ロギノフが任命されました。そしてA.N.ロギノフが日本外務省から認可状を受け取った直後に領事館の開設が承認されました。1925年6月10日、これにちなんだ開館式とレセプションが行われ、日本政府の代表、民間のビジネス関係者、函館在住のソ連人、商船「シンフェローポリ号」の乗組員など約100名が参加しました。 

函館市を含めソ連邦と日本の一連の都市における相互的な領事館開設についての公式的な取り決めが、この後同年7月から8月にかけての口上書交換を通じて締結されました。ソ連邦領事館の管轄地域には北海道全域が含まれました(1926年から1938年までの間は、石狩、北見、手塩が除外されていました)。

ソ連邦領事館の職員は「堤倶楽部」としてよく知られている「元キング邸」に一時滞在し、両国間の合意に基づいてソ連邦に移管された旧ロシア帝国副領事館の修理が完了した後1927年にこの建物へ移転しました。職員定数はその年によって3名から5名までした。また、通訳として地元住民が雇用されました。1930年代には領事館は季節限定業務になり冬期間は閉鎖されました。 

ソ連邦領事館は函館で約20年間業務を行っていました。1944年3月30日にソ連邦政府は公式に当領事館の閉鎖について日本側へ通知しました。

それから60年後領事業務の再開に関する問題が再び話し合われました。1997年の合意に基づいて2003年9月に函館で在札幌ロシア連邦総領事館在函館事務所が開設されました(住所: 元町 14-1)。 

1989年に旧ロシア領事館は函館市の「景観形成指定建築物」に指摘され、今でも保存されています。ロシア人墓地にはロシア帝国領事館医師のV.ヴェスレイ(1869年死去)と当領事館付属ロシア正教会の聖歌読誦僧のV.L.サラトフ(1874年死去)の墓があります。また、初代ロシア領事ヨシフ・ゴシケーヴィチ夫人ゴシケーヴィチ・エリザヴェータの墓もこの墓地に移され埋葬されています。

                       

                                     


それから60年後領事業務の再開に関する問題が再び話し合われました。1997年の合意に基づいて2003年9月に函館で在札幌ロシア連邦総領事館在函館事務所が開設されました(住所: 元町 14-1)。 

1989年に旧ロシア領事館は函館市の「景観形成指定建築物」に指摘され、今でも保存されています。ロシア人墓地にはロシア帝国領事館医師のV.ヴェスレイ(1869年死去)と当領事館付属ロシア正教会の聖歌読誦僧のV.L.サラトフ(1874年死去)の墓があります。また、初代ロシア領事ヨシフ・ゴシケーヴィチ夫人ゴシケーヴィチ・エリザヴェータの墓もこの墓地に移され埋葬されています。